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山田勇さんの報告

私たちも参加したHOWS講座(3/10)における、山田勇さん(元・全逓東京中郵一特分会書記長)の報告です。

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 一分会役員の体験から



[はじめに]
30年程前に全逓東京中郵支部一特分会書記長だった山田勇です。この度は永年の付き合いであったTさんの説得を受け、この場に立っています。何度も「私なんかが出る場ではない」と断りましたが、Tさんとの30数年間の「縁」で断りきれず、恥ずかしながら受けました。そういう訳で物足りない内容ですが私の小さな経験等を聞いて頂ければ幸いです。全く個人的なうろ覚えで、記憶違い等もあると思いますがご容赦ください。

[簡単な履歴]
* 1944(S19)年12月27日 「8ヶ月」の未熟児で誕生。
*   63(S38)年 工業高校卒。学校斡旋で新潟県のステンレス会社に就職。
*   66(S41)年 牛乳配達店住み込みで東洋大Ⅱ部に入学。自治会役員に。
*   68(S43)年 自治会委員長にさせられる。そして「50日間バリスト」へ。
*   70(S45)年 学費滞納で「大学除籍」(この五年間、様々なアルバイトを経験)
*   71(S46)年 東京中央郵便局に就職。

[73春闘まで]
 1970年暮、先輩の仲介で「正職員採用を前提に年末繁忙期アルバイト」として就職。当時は郵便局に「郵便局員募集中」という垂れ幕がかかっていました。私は「局採用」でした。最初は「三交替勤務」にビックリ、「やめようか」と思った。また作業帽に前掛け、雪駄履きの「職人気質」の職場に驚き「ここは本当に丸の内か」と思った。そして71年3月「臨時補充員」、5月「郵政事務員」、6月郵政研修所卒業、「郵政事務官」となる。
 71年秋の全逓支部大会で青年部役員になる。当時、全逓中郵支部組合員は約2700名―10数分会、青年部員は約1000名。青年部役員10名中、民青5名、社青同3名、新左翼2名でした。私の所属分会は組合員390名位、分会役員10名中、共産党系8名、社会党系2名でした。分会青年部役員もそんな感じでした。
また運動実態は外部で聞いていた「全逓運動=企1・2号(長期抵抗大衆路線)」とは大違いだと感じました。しかし局内集会などはまだ出来ていました。
 私は「社会党の人が分会役員」の番(3課三交替=9番)に配属されました。若気の至りで学生時代の調子で職場オルグをして元4回戦ボクサーの先輩に廊下に呼び出され、「お前の言う事は解るが、ここには番の仕来りがある。番役員の顔を立てろ」と言われました。身に沁みる「説教」でした。また共産党系活動家に「生意気だ」とトイレに連れ込まれ殴られました。その後の交流で「お前の話は解った。昔、俺の親父は社会党国会議員の後援会役員だった。親父の墓前で土下座して謝ってくれ」と言われました。彼は後の「全逓分裂」時に共産党中郵幹部に「民間少数組合の厳しさ」などを訴え「分裂反対」を主張しました。そして「新東京合理化」配転後、中郵局内で「事故死」しました。
その後の活動経過はいろいろありますが、当時の全逓運動は「反マル生闘争」から「73国民春闘」に向って「成長」していく過程でした。「宿明け」で様々な行動がありました。
私自身の記憶は分会で『青年労働者』という機関紙を発行し、『古典学習会』を組織しました。それが後の私の「分会活動」の一定の基盤ともなりました。
そして運命の「73国民春闘」です。東京中郵支部も15年ぶりの「スト突入」でした。一番印象に残っているのは事前の「スト突入指令会議」に参加した分会長が何回も「スト突入する訳が無いよ。『暁の脱走』に決まっている」と言ったことでした。私も職場実態から見て「そうなのかな」と思っていました。しかし「スト一週間前」から本部役員が入り「オルグ」が始まるとガラリと雰囲気が変わりました。「スト突入」に向けて緊迫した体制が生まれました。結果的には「4割程の脱落」でしたが私には「客観的条件と主体的条件の統一」の貴重な経験でした。学生のとき経験した「50日間バリスト」のときもそうでした。様々な人間模様に接しました。ひとつは「職人気質」の主任が「来年退職だ。40数年間の出勤簿に『青欠』を付けたくない」と拒否していたのが「義理人情」の説得にキッパリとスト参加したこと。いま一つは、最後まで迷っていた同期の仲間を東京駅南口で待っていたら、彼は「局前集会」を見て「ストは労働者のお祭りなんだ!」と参加を決めたことです。
そして「スト脱落者」への「総括オルグ(スト脱落を反省し、今後はスト参加します)」です。宿泊勤務で寝ずの「オルグ」が一ヶ月程続きました。5月4日「宿明け」で結婚式でした。夜学生時代の無茶な生活や、その他の事情等も重なって「体調」を崩しましたが、なかなか休めませんでした。自分の中に「日和った」とか、「組合病」と言われるんじゃないかという意識が強かったことを覚えています。
一年間ほど組合活動と「体調不良」の板挟みに苦悶した後に倒れました。74年5月から11月まで「病休―休職」でした。「退職」も考えました。自宅見舞い訪問してくれた仲間に支えられ「八割勤務」で復職しました。
 それから退職迄の30年間、「固定番(病弱により日勤勤務に固定する)」でした。当時の中郵では交替制勤務職場の1割位は「固定番」でした。「権利の全逓」の財産でした。そして「寝食を忘れて」「身体を張って」活動することができなくなりました。その後の30年間で「満額定期昇給」したのは91年の「新東京配転御祝儀」の一回だけです。

[分裂までの10年間]
正確ではありませんが75年秋から所属分会・第一特殊分会の分会役員になりました。それから8年間の分会活動の一つは計画課担当で、後に部長や局長になった組合員と「昼休みオルグ」で議論し「業務対策知識」を得ました。
また子供が生まれ共稼ぎだったので「保育問題」にぶつかりました。色々ありますが一番は半年間の「慣らし保育欠勤」です。毎朝1Hの「承認欠勤」を取りました。労務担当上がりの課長と論争して「降参」させて勝ち取りました。「病休の山田」「欠勤の山田」で有名になりました。それが私の活動ブランドでもありました。「なんで親父が子供の看病休暇なんだ、女房はどうしたんだ」という批判に、共稼ぎの「生活実態」や「カミさんの職場実態」なども教宣しました。20数年後に再会した全郵政の課長代理の女性から「娘さんはどうしていますか」と言われてビックリしたことがあります。
次は「固定番廃止攻撃」です。「固定番者が多くて宿泊番要員が足りない。固定番を日勤職場に配置転換して宿泊番要員を確保する」という攻撃でした。私は「固定番廃止反対、強制配転反対」の方針を提起しました。分会役員会は「固定番廃止反対、希望配転実現」でした。「山田は『配転希望者』にピケを張るのか」と分会長から批判されました。結果的には「希望させられて」日勤職場に行った人の何人かは退職し、何人かは組合批判者になりました。私への支持も少し出来ました。「資本主義的合理化絶対反対」の論争でした。
その他、似たような課題を幾つか経験しました。多くは「個別課題」でした。今から振り返って見れば、そういう闘いや経験を他分会に広げる、支部全体の思想的組織的運動に高める、階級的組織建設をするという視点は非常に弱かったと思います。「党派的学習会」はやっていましたが「思想性=党派性」は全く不十分だったと思います。
また地域活動や他労組との交流・連帯・共闘は、私は殆んど経験していません。私自身が「病弱者」であったこともありますが支部・分会的にも迫り来る「郵政合理化」の対応に精一杯だったこともあると思います。

[分会書記長の五年間]
そして83年11月、運命の「郵産労分裂」です。色んな議論・経過がありますが基本的には『郵便事業の危機を訴える(郵政合理化)』に対する対立・分裂でした。支部全体で「政治闘争資金」未払い者は700人位、「中郵労組(郵産労前身)」結成は300人位でした。分会では100名程の脱退。その内、中郵労組は70名位でした。
その結果、3課三交替=9番+計画課=280名の分会書記長を命ぜられました。社会党系役員4~5名からのスタートでした。分会長選出で支部と揉めました。彼は新左翼系シンパで「病休取得」等で有名な人でした。私は「混乱期には彼のような、政治判断がテキパキ出来る人が必要だ」と担ぎました。私は自分が「事務屋」的である事を自覚していました。
分会役員体制を確立するまで一年程かかりました。共産党系が強かった課の二番は役員が作れませんでした。結果的には社会党2人、新左翼系4人、組合主義的4人の感じでした。
分会体制を確立しながらの「59・2合理化反対(全国的には鉄郵の廃止でしたが中郵的には慣行休息剥奪反対)」闘争でした。分会的には「速達小包」課の人員削減も課題でした。「全国地域区分局共闘」が作られて、中郵では当局提示の「慣行休息剥奪2・1実施」を「5・27」まで遅らせ、「41H4週7休」まで持っていった事は「全国地域区分局共闘」の一定の「成果」でした。
私自身の記憶は「支部方針に反対と言うなら、丸の内南口で『私たちは16勤で実質8時間労働です。仮眠時間協約は3時間20分ですが慣行で4時間50分です。この慣行剥奪に反対して闘っています』と演説をして署名を集めろ」と支部委員会で詰められたことです。「グーの音も出なかった」記憶があります。もう一点は最終的な支部委員会の「採択」の時に、「職場オルグ」をするために「休会」を要求し、宿直番休憩時間にオルグに入り「状況報告」をし、「分会は『涙を飲んで受諾』せざるを得ない」ことを訴えました。そして再開支部委員会で「涙を飲んで受諾」発言をしました。
その後は「新服務表」交渉です。夜間の休憩・休息時間を巡って23時過ぎまで揉め支部交渉部長から「他の分会は終った、何時までやっているんだ」と怒られました。特殊部長を脅して「妥結」させたことが印象に残っています。
 これが分会を組織して初めての活動でした。後の「60・3合理化」「新東京合理化」の時にも、最後には「一特分会の言い分は解った。じゃ、山田が支部長をやれ。誰が付いてくるかな」と批判されました。勿論、この壁は越えることは出来ませんでした。
 この過程の中で分会、分会青年部体制を創りながら、もう一つは「職場委員会」体制を作ろうと考えました。良く言われる「5人組組織」です。そんなにきれいには行きませんでしたが、私が所属する課では、この「5人組活動」が一定の力を持ったと思います。
そして「分会役員手当」を「分会合宿費用」に当て、分会役員、青年部役員、職場委員を2~30人組織して「分会合宿」を行いました。今も「名ばかり」ですが続いています。
そしてこの年末、この講座を進めたTさんの事件です。この経過も色々ありますが背景は職場慣行剥奪攻撃でした。12月初めにTさんのお父さんが亡くなり、葬儀参列慣習を巡って争いになりました。そして年末繁忙時にTさんが、お母さんからの「お礼の気持」の「おでん」を持参し、冷蔵庫に入れました。これを当局は「酒のつまみ」だと、Tさんに断りもなく撤去しました。父の葬儀への対応や母の気持を踏みにじる当局の対応に怒ったTさんはミーテングの場で副課長のネクタイに手をかけ引きずりました。
この事件を巡って、支部と対立しました。私はこの攻撃の背景には「職場慣行剥奪」攻撃がある。当局の対応は「父の死」や「母の心」さえも認めず踏みにじるものだ。非は当局にありと糾弾・教宣すべきだと主張しました。支部は「暴力」問題はTさんが不利だし「年末慣行」は微妙な問題だから「裏」でやるしかないと言う事でした。
  私は「分会機関紙」で当局の非を教宣・糾弾しました。結果的には「減給3ヶ月」だったかと思います。これも一つの「分会組織化運動」だったと思います。
 そして運命の「60・3合理化」です。「59・2合理化」が「59・5」まで延びた事によって、東京中郵内の「要員合理化」は一年延期になった形です。そして支部的にも「やむなし」の流れでした。具体的にも「過員の特殊部から他職場への配転」ですから「支部全体」の運動になりませんでした。支部提示は3ヵ月前ですから、「59・12」提示だったと思います。
正直、迷いに迷いました。「59・2合理化」は支部を上げての「反対運動」でしたが、今回は「特殊部―1特分会」独自的な課題でした。この一年間、否、それ以前から訴えてきた「資本主義的合理化絶対反対」「職場反合闘争」を具体的に組織できるのか、責任を取れるのかと苦悶しました。「社会主義者の卵」と「分会書記長」との間で迷いました。正直、「書記長判断」で「妥協」をしようかとも思いました。苦悶の中での年越しでした。俺は配転されないという後ろめたさもありました。恐らく組合員は私以上に思い悩んだ「年末始」だったと思います。
年明け1月12日の分会役員会には「経過報告と問題提起」だけしかできませんでした。
そして1月17日、運命の「千代田資本論」学習会です。自分の苦悶を訴えました。民間労組書記長Oさんから厳しい批判を受けました。「そうか、結局お前も土壇場で裏切るのか。今まで言ってきたことは綺麗事だったのか」などと、厳しく「糾弾」されました。今はそのような言葉しか覚えていませんが、民間少数組合でロックアウトや工場閉鎖などの攻撃を闘ってきたO書記長の言葉が胸に堪えました。
そして19日役員会で「処刑場に引かれる罪人のように『3月配転』まで疑心暗鬼にオドオドと過ごすのは厭だ。原則に立ち返って『60・3合理化』反対の意思表示をしよう」とワッペン着用闘争を提起しました。役員会では不安意見もありましたが確認しました。印象に残っているのは新左翼の仲間が「山田さん、それは無理だよ」と言ったことです。それから一ヶ月程かけて「職場オルグ→職場委員会→分会役員会→職場オルグ・・・」をやり、「分会決定」として「60・3合理化反対」のワッペン着用戦術を決定しました。
しかし支部から厳しく批判されました。①分会には「執行権」はない、②支部、地区が認めない戦術に組合員は参加しない、③それでも参加した組合員への処分に、分会は「責任を取れるのか」と詰められました。また、「支部として分会青年部以上の役員に一週間の『腕章着用戦術』をやるから分会戦術は止めろ」と説得されました。動揺しました。廊下に出て分会三役会議をやりました。上述の分会長の一声で「突入」を決定しました。
結果は末端職制以外は殆んどの組合員が「60・3合理化反対」のワッペンを着けました。
その後の経過については詳細は省きますが、約50名の「局内強制配置転換」は始めての事でした。そして「内命」の日、前夜の「飲み会」で「今日は俺の送別会だ。覚悟はできている。大丈夫だ」と言っていた同期の仲間は「内命」を受けて腰を抜かしました。彼は後に千葉へ転勤。そして「事件」で退職。Tさん達と支えましたが後に「自殺」しました。怖かった先輩も「内命」を受けて区分台に掴まりました。心身症の組合員への「内命」を身体を張って抗議した仲間の行動など、胸が痛む光景でした。この二人とは「病休」や「公務災害」等で自宅訪問もしました。退職後も繋がっています。
この「60・3配転合理化」が、以後の私の「人生―労働運動」の原点になりました。
その経過と結果を受けて、その後の分会活動は配転先の「元分会員」の課題も少し取り組みました。「分会合宿」は配転された元分会員をも対象にして行ないました。また「胸章着用」反対、「営業活動」反対の分会方針や、「東京多摩集中局合理化」反対、「新東京局合理化」反対の活動を取り組みました。
印象に残っている一つに「営業活動」反対方針について、ある番の「職制組合員」から「支部は一定の営業活動を認めたのに分会が反対なので職制は局施策との板挟みになっている。分会方針を変えるべきだ」と申し入れがありました。この番の「職制」全員10数名と「宿明け」で昼頃まで議論しました。結論は「分会の方針は解った。これからは分会非難はしない。しかし職制の個別対応も認めてくれ」というものでした。妥協です。この会議を経て、この番の「職制組合員」とも親しくなりました。
また「新東京局合理化」では特に「固定番=病弱者」の配転問題で支部と対立しました。
前述の分会での「固定番問題」と同じような内容でした。結果的には「分会三役会議」で支部書記長が「支部対応は間違っていた」と謝る場面もありました。「自分の仲間を皆の前で謝らせるなんて、山田は酷い奴だ」という非難も受けました。
それはまた自分自身の「配転問題」でもありました。この時も動揺しました。最終的には「新東京配転」でしたが、東京中郵内、都内一般局、居住地神奈川の局が配転対象でした。迷いに迷いました。数人の仲間内会議で「厳しいけれどスジを通す」ことを確認して動揺を喰い止めました。

[新東京局=郵便ドレイ工場へ配転]
そして90年8月「新東京郵便局開局―分会解散」でした。全逓新東京支部は約1800名―10分会だったと思います。「山田を分会役員にするな」ということで私の所属分会の役員体制は遅れました。最終的には私も三特分会書記長になり、一特分会長や四特分会の分会長・書記長などを旧一特分会役員が担い、上部方針に批判的な他分会役員と一緒に「分会交流会」を創りました。しかし上部機関から「敵対組織」と規定されて数人の仲間が「人事交流」されました。「分会交流会」を「職場交流会」に切り変えて「職場新聞」の発行や「4・28交流」「全国大会代議員立候補」などをやりました。
新東京で個人的に印象に残っている活動の第一は、「人事交流」で来た組合員の「自殺」でした。自分なり対応したつもりでしたが夏季休暇中に「自殺」しました。母親の所に謝りに行き、何回目かに「公務災害」を提起したが断られました。「分会交流会」機関紙に「Sさんの死を悼む」という記事を書いて執行委員に非難され、口論になりました。
また「郵便犯罪冤罪事件」もありました。半年以上、苦闘しました。職場からは「あいつが犯人に決まっている」と言われ、支部執行委員からは「山田はMさんの退職金の責任を取れるのか」と詰められました。結果的には「冤罪」でしたが、何時「懲戒免職」が出るか、「自己都合退職」を勧めたほうが良いのか、と迷いに迷いました。
また他局の「心身症休職」問題について、配転仲間と連携しながら対応した事もあります。
自分の事では2000年に、全く自覚が無かったところに「八割勤務での病休取得が通算180日を越えたので『休職』を命ずる」と言われてビックリしました。25年前の事を忘れていました。休職辞令を自宅最寄り駅まで課長に持って来させました。そして1ヶ月後に「復職手続き」を申請したら、「彼方はMHC(メンタルヘルスケア)だから復職は出来ない」と言われました。「何んで?!」「睡眠安定剤が調剤されているから」と言われました。「そうか、敵は仕組んでいたのか」と思いました。2ヶ月後の「復職審査会」で逓信病院の副部長と喧嘩し「復職不可」の口実になりました。他の産業医の弁護や局医とのヤリトリの結果、「復職」になりました。これも「職場新聞」に載せました。

[自分なりの総括]
さて自分なりの纏めです。全く個人的感想をご容赦下さい。基本は「時代に規定されて」生きて来たことです。中味は「3才年上の団塊の世代」だと思っています。
その「総括」の基本は「なぜ、歴史的社会的右傾化にキチンと抵抗できなかったのか」ということです。夜学生時代に先輩に「命令」されて社青同に入り「68-69」を経験し、全逓運動でも「73―75国民春闘」「78-79越年闘争」を体験しました。しかし活動の基本は「機関決定―指令・指示」型の運動であり、個人的にはコツコツと「職場活動」「組合活動」を積み上げて行けば「全逓―総評―社会党」が「階級的に強化される」という「甘い」思想でした。また観念的な「ねば・べき」論が強かったと思います。
そういう意味で明確な「思想性=党派性」が弱かったことです。自分なりに「思想性」を作る努力をしましたが「全逓枠内」でした。「78~79越年闘争」頃までは「党派的」にも一定の「前進」がありましたが、「10・28確認」以降、「崩落」しました。
その中でも一定の「運動と組織」が作れたのは「権利の全逓」の財産があり、高度成長の終焉、第二臨調「行革合理化」の下で自分なりに「生命と権利」「生活実態討論」「職場反合闘争」という視点で「具体的」な課題を取り上げ、一定の運動を作り、教宣し、「小さな」成果を上げ、「小さな」組織作りをしてきたからだと思います。私が「固定番」だったことも一つの総括視点かなと思います。闘わなかったら辞めるしかない。その意味で「病気になったから日和らずに来られたのかな」と思います。これは微妙な「総括視点」です。しかし個人的「限界」でもありました。
 そして、それらに規定されて分会を超える「運動と組織」を作れなかったことです。支部的には少し影響力はありましたが、支部全体に「運動と組織」を拡げ定着させることはできませんでした。
また大きな反省は「地域交流」「地区労運動」という視点が全く無かったことです。これも「思想性=党派性」の欠如です。中郵支部が大きかった事、「郵政合理化」に直面した事なども理由の一つですが、正直なところ自分の活動意識の中に「地域労働運動」は全くありません。個人的には「千代田資本論」が私の小さな「地域交流」「地域活動」でした。
そして今、私の「総括」は「新たな情勢」の下で「思想性と大衆性」「具体化と組織化」
「既存労働組合運動とユニオン運動の連帯・共闘・団結」などを考えています。難しいことですが。  


by voice-up | 2012-03-23 09:02 | 労働
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